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(2016年4月1日更新)

川口市の概要・歴史

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 川口市は埼玉県の南端に位置する都市です。荒川を隔てて東京都に接し、江戸時代から鋳物や植木などの産業が発展。その後、住宅都市化が進みました。首都東京と隣接しているという利便性を活かしながら、固有の伝統ある“ものづくりのまち”として、活力あるまちづくり・人づくりを目指します。

 

 

市 長    奥ノ木 信  夫(おくのき のぶお)

 

副市長    水 野 敦 志(みずの あつし)

 

副市長     田   勝(たかだ まさる)

 

市制施行日  昭和8年4月1日

 

【沿革】

 川口に人間が住み始めたのは、今から約2万年前といわれています。その頃、川口の南部は海面下にありました。北東部の台地には、旧石器時代の天神山遺跡や縄文時代の遺跡である猿貝・新郷・石神貝塚をはじめ多くの遺跡が残されており、海辺で生活を営んだ祖先を知ることができます。

 

 川口という名称は、旧入間川(現在の荒川)の河口に臨んでいたことから起きているといわれていますが、治承4年(1180)源頼朝の挙兵に加わるため弟義経が鎌倉に向かう途中、川口の渡しで兵をあらためたことが「武蔵国足立郡小川口に着き、兵を閲したところ八十五騎になっていた」と『義経記』に記されています。

 

 川口の地も戦国時代には、太田氏や北条氏の支配を受けましたが、江戸時代に入るとほとんどが幕府直轄領となり、代官の支配下に入りました。見沼溜井や見沼代用水、赤堀用水などの灌漑治水によって農業が一層発展しました。また、日光御成道は徳川家康の霊廟を日光に移した元和3年(1617)以降整備され、川口にも将軍の日光参詣に伴う休憩所(錫杖寺)や駅逓業務を行う問屋場がおかれました。

 

 享保13年(1728)の見沼代用水路の開さくによる舟運・陸上交通の整備に伴って商品の流通が盛んになり、今日の川口の発展の基となる種々の産業が興りました。鋳物産業は、江戸中期以降は技術の確かさと江戸市民の需要増大によりますます盛んとなりその数もさらに増えて発展の一途をたどりました。また、承応年間(1652〜1654)に安行の吉田権之丞によって始められたという植木や苗木の栽培は、明暦3年(1657)の江戸大火によって焼野原となった江戸へ、植木や草花を供給して以来発展しました。さらに幕末期には、織物・釣竿が江戸を中心に商品として進出するようになりました。当時の川口町は、今の本町1丁目と金山町を中心に300戸ほどの家が集まっただけの小さな町で、現在賑やかな川口駅前や栄町・幸町付近は見わたす限りの田畑や湿地帯であったといわれています。明治末期には鋳物工場が150軒ほどになり、荒川や芝川の舟運を利用して原料や製品運搬が行われました。その後、川口町駅や新荒川大橋ができると鋳物産業を中心に飛躍的発展をとげ、「鋳物の街川口」の名は全国に知られるようになりました。

 

 川口市は昭和8年4月1日に、川口町・横曽根村・南平柳村・青木村の1町3村が合併して誕生しました。その後、昭和15年に、芝村・神根村・新郷村の3村、昭和31年に安行村、昭和37年に美園村の一部であった戸塚、そして平成23年10月11日に鳩ヶ谷市と合併し、現在の川口市となりました。

 

 古くは徳川将軍参詣の社参行列が通った「日光御成道(にっこうおなりみち)」の宿場町として栄えた川口市は、伝統の鋳物・植木をはじめとする幅広い産業と、市民のたゆまぬ努力に支えられ、将来都市像である「人と しごとが輝く しなやかでたくましい都市 川口」を目指して着々とその歩みを進めています。 

 

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